昭和35年、安保闘争が熾烈を極め、死亡、流血の惨事が繰り広げられたが、この激動も沈静化し昭和36年の元旦は穏やかに明けた。
川田健治郎氏は音更町内にて農畜産業を営んでおり、還暦を迎える年となっていた。
健治郎氏はこの念頭にあたり、書き始めとして次の文をしたためた。
余生の糧
開拓の志を継ぎ営農40星霜、親を送り子育ち
吾期せずして遂に初老に入る
試みて大成は得ざるも蹉跌なく坦々たり
今、茲に幸追う身障の子等に余力を添え、生涯の快楽とす
(口語訳)
開拓の志を継ぎ、農業を営んで40年、親を看取り、子も育ち、とうとう還暦を迎えた。
今まで大きな成功を収めたわけではないが、大きな失敗もなく、平坦な道のりであったと思う。
今、ここに身体に障がいを持つ子ども達自らの幸せのため、自分達で生きる力を 身につけることに残りの人生を捧げる。
『一年の計は元旦にあり』健治郎氏にとって、この生涯の計も元旦にあった。
《身体障がい者の福祉のために施設を建設しよう!》
一念発起、燃えたぎる情熱を抑え切れないまま、健治郎氏は、この正月中に東奔西走して有志を募り、音更町内施設の会議室において、昭和36年2月1日、仮称、音更身体障害者収容授産所音更福祉センター設立発起人会を発足させた。
その席には、時あたかも、十勝地方を視察中であった当時の厚生政務次官、山下春江代議士も臨席していた。
更葉園が生まれようとする以前の、そして、最も忘れることのできない更葉園創造の日、それは昭和36年2月1日であった。
ここから、更葉園の歴史が始まるのである。
※更葉園30周年記念誌「来たみち行くみち」より引用